よこと病気と○○と

1人の人間として、ありのままをツラツラと。お布団と社会の間から

私と与えられた人と奪われた人

 

どうあがいてもこの世には

「与えられた者」と

「奪われた者」がいるようです。

 

 

与えられた者と考えて自分のことが浮かぶ人の方が少ないのかもしれないけれど

 

奪われた者には確かにわかる感覚があるようで

私は確かに「奪われた者」でした。

 

春は与えられたものの匂いが強く

街を歩いててなんとなく苦しくなるのは

そんな陽気な匂いのせいなのかもしれません。

 

あの春に「君には未来があるから」と

背中の裏に隠し続けた思いがありました。

人の未来を奪うことしかできない、そんな錆びた鉛のような自分が、許せなくて仕方なかったです。

 

 

「人として与えられるはずであろう

一定数の自由、それに伴う希望」

 

わたしが体感ではかっている

与えられた者が持ち合わせているものは

これなのでは無いかと思います。

 

与えられるべきものが少ない、または小さい

それに伴い生活、生命活動に限界が生じる

 

 

幾晩か前に

医療系バラエティをぼーっと見ていた彼が

「こう言うのって突然くるから怖いよね〜やだな〜」と言っているのを聞いて

 

私は「そうだね」と笑いながら

ああ、この人は与えられた人だと思いました。

 

桜が満開だった夜に夜桜を見ていた彼が

「自分裏も表もないんです」と笑っているのを聞いた時も

 

ああこの人は与えられた人間だと思いました。

 

「とてもじゃないけど、

この世の中生きていこうとしたら

そんなこと言ってられないよ。」

 

そういう率直な感想が、

2つの場面を通して私の中にありました。

 

病の再発なんて突然の繰り返しで

そんなのに怯えていてはなにもできない。

裏も表も作っていなきゃ、とても社会に順応なんてできない、取り繕っていけない。

 

与えられた人は

嫉ましくもあり、羨ましくもあります。

 

与えられた人には

私にはとてもできないようなことが本当にたくさんあって、きっとこれからも率先して社会を回していく人たちになるのでしょう。

 

それでもたぶん、奪われた人には奪われた人にしかできないことがあって。

それはきっと与えられた人に比べたら

地味で些細なのかもしれないけれど、

動かせる足があるのなら

生きたい場所が、やりたいことがあるのなら

きっと同じように、やり遂げられるはずなのだと。

 

神さまは奪うだけのようなことはしない。

必ず奪い、そして与えていくのだと

言っていた人がいたように。

 

体感でしかわからないけれど

私たちは「奪われた」という感覚を確かに

与えられています。

 

その感覚をくちゃくちゃに丸めて

ポッケに突っ込んで拳作って唾はきながら

歩いていくのもまた強さ

 

だけどたまに、不甲斐なくて、泣いてしまって立ち止まってしまった時

くちゃくちゃになったそれをそっと開いてみる

のも強さ。

 

ただひとつ、おおっぴらに掲げて

踏ん反り返って歩くような人にだけはならないように。

粛々と持ち合わせて生きていけますように。

 

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