私と病気と「あら」
痛みをわかってもらえないことが、
とても辛い。
夜に旦那と2人で映画を見ている途中、
急に胸がちくちくと痛くなった。
そこそこに気になる痛みで、2時間くらい続いていた。胸の痛みに伴って、パニックが顔をだしはじめた。
どんな痛みやちょっとした体調不良も、パニック発作には十分なトリガーになる。
胸の痛みもつらいけれど、それ以上に予期不安につきまとわれることが苦しい。
そんな苦しさと、日々戦っている。
それは毎日が異常である恐怖
悪化する可能性と向き合い続ける勇気
治らないかもしれないという不安
必ず治ると強く未来を信じる力
健常者には、到底わからない、辛さと不安
わからないよ、わからないよな。
だって私もついこの間まで健常者だった時、
こんな辛さ忘れていた。
日々仕事のことと、休みには今日は何をしようかと考え、未来の予定なんかを想像して楽しんでいた日々。
あの頃考えもしなかったようなことを今考え、怯えている。
今の思考は、どうだろうか。
今の調子はどうかと、1時間に1度は体に問い続ける。1日の間に何も考えず元気なのは数時間だけ。気がつけば自分の体が悪くなり、倒れる恐怖ばかりを考えている。
未来のことなど考える余裕もない。
今月はあと何回怖いことがあるだろうかと考えている。家に1人でいるのが怖い。
そんな辛さを、旦那は知らない。
私はそんな辛さの多くを、旦那には語らない。
きっと私が笑わなくなったら、家族は心配するから。
だから私が「胸がちくちくと痛む」と、勇気を出して伝えたSOSも、彼は「あら」の一言で完結させる。
彼の中でそれは「あら」で済むことだからだ。
羨ましいなと思う。
それが正常だ。
健常だ。
この前、他の誰かにも「眠れなかった」を伝えた時、「あら」と言われたのを思い出した。
「あら」で済む世界は、とても幸せだと思う。
私たちが住む世界とは、全く違う。
でもやっぱり、「あら」で済む世界それこそが、この世の正解なのだ。
だから私たちがそれに対して憤慨しても、健常者は私たちの怒りを理解できない。
そして私たちは、健常者に対してそれ以上何も言うことはできない。
だって世界の正解は「あら」なのだから。
こんなことを書くなんて、私は嫌なやつで、捻くれ者だと思う。
伝えることを怠った、ただの馬鹿な当事者だ。
わかって欲しい、寄り添って欲しい
知られたくない、心配させたくない
両方の気持ちが喧嘩して、うまく伝えることはいつだって難しい。